世の中には「子供のような親」が山のようにいることに日々驚かされる。
例えば、

 

➀子供を置いて飲みに行き、朝方まで帰って来ないといったことを繰り返す親。
➁子供と一緒にレストランなどには行くが、子育てはスマホにさせている親。
➂子供と一緒にいるが、自分はスマホをずっとしている親。
⓸ショッピングモールで、子供は放置で自分の買い物に行く親。

 

などだ。確かに、家事や育児は大変だろう。
しかし、だからといって➀~⓸の行動が
「親として、取るべき行動か?」といったら残念ながらNOだと私は思う。

 

私の経験上「子供が産まれた、その瞬間から立派な親になる」といった
魔法なようなことは現実で起きることは極めて少ない。
子供が産まれ『戸籍上』は親になっても、
精神的に子供のままの親は、かなり多い。
そのため、その人自身が「親になろう」と考えない限り、
その人はずっと子供のままなのだと思う。

 

しかし、

 

何をもって『親』になったといえるのか?

 

という定義も非常に難しいと思う。何か基準ががって
「これと、これと、これを達成できたら、あなたは立派な親です」といったものがあれば
楽なのだが、そういうわけでもない。そのため、人によって『親』の定義は異なると思う。

 

現在、私は『親の定義』をいろいろな方向から考えているのだが、
まだ答えは見つからないままだ。しかし、
「これは親の定義に入っているだろうな」と思うものが1つある。
それは

 

行動の基準が『私』から『あなた(自分の子供)』になる

 

というものだ。どういうことか?(私の勝手な意見だが)
子供のような親というのは、基本的に「私がどうなるか?」を
基準に行動が取られている気がしている。例えば、

 

a. ショッピングモールに行く → 私が楽しみたいから
b. 子供を躾ける → 私が良い親だと思われたいから
c. 子供を良い学校に行かせる → 私の教育を正当化したいから
d. 嫌でもママ友と付き合う → 私が嫌われたくないから

 

というものだ。これは(乱暴な言い方をすれば)
「子供を自己実現に利用している」というものだ。
「私ってすごいでしょ?」「私って賢いでしょ?」
「私って偉いでしょ?」のように、
最終的に重要なのは、あくまで『私』。
「子供が多少傷ついても、私の身を守る方が重要」という考え。
こうなると、言うことを聞かない子供に対し暴言を吐いたり、
気に入らないことがあるとすぐに怒る、
また不倫に走るといった行動にもつながる気がしている。

 

一方で、「親になる」というのは、同じ行動でも

 

a. ショッピングモールに行く → あなたが楽しんでもらいたいから
b. 子供を躾ける → あなたが将来バカにされないように
c. 子供を良い学校に行かせる → あなたが将来いい仕事につけるように
d. 嫌でもママ友と付き合う → あなたが友だちと良い関係でいてもらいたいから

 

と考えることなのだと思う。
重要なのは次の世代を担う『あなた(自分の子供)』。
「自分が多少傷ついても、あなたが幸せになることの方が重要」
と考えらえるようになることなのだと思う。
「自己犠牲の精神」というより
「子の喜びが親の喜びになる」ということだ。

 

こういった要素も「親になる」というのには含まれているのだと思う。
断っておくが、別に私は

 

子供であることが『悪』で、親になることが『善』

 

と言っているのではない。極論を言えば、
法治国家である日本では、犯罪を犯さない限り、
それは『善』である・・・ということもできるため、
私は自分の価値観を他人に押し付けるつもりは毛頭ない。
しかし、私は「立派な親」として誇りを持って生きたいため、
「どうしたら立派な親として生きられるか?」を考えた結果の
今の結論・・・というだけの話である。