どうも~。藤井です。

今回は

 

スマホによって失われている

日常で必要とされてきた我々の想像力

 

についてお話をしようと思います。

 

最近は、かなり便利な道具となっているスマホ。

大学生以上であれば、持っていない方が珍しい

この機械ですが、便利になっている一方で

「日常で必要とされてきた我々の想像力」が

なくなってきているのではないかとよく感じます。

 

例えば、待ち合わせ。今の時代なら

「それじゃあ、明日は上野駅に10時で」

といった約束をし、10時に到着してから

「今、上野駅に着いたけど、どこにいる?」

といった具合に待ち合わせをするのが多いと思います。
つまり、

 

①前もっとざっくりした待ち合わせ場所と時間を決める。

②待ち合わせ場所についてから連絡。

③近くにいれば、落ち合う。遅刻なら待つ。

 

といった形だと思います。

上野駅も広いですからね。「上野駅で待ち合わせ」では

まず見つからないと思います。

また待ち合わせに遅刻しそうな場合、

身内や親しい友だちならLINEで連絡すれば大した問題にも

ならないと思います。

しかし、

 

スマホ・携帯電話がなかった時代はどうだったのか?

 

と考えますと、おそらく「上野駅で待ち合わせ」だけでは、

落ち合うことが困難だと想像できます。

「上野駅のジャイアントパンダの前で待ち合わせ」

というように、具体的に場所を指定する必要があったと思います。

(ちなみにジャイタントパンダはこちら

 

また、ジャイアントパンダがどこにあるのか分からない場合は、

事前にどの出口にあるのか聞いたり、

電車を降りてからの道順を調べたりする必要があったと思います

(ちなみにジャイアントパンダは、入谷口だそうです)。

 

そして、遅刻するようなら「相手に心配をさせてしまう」

「相手に迷惑をかけてしまう」と想像できるため、

時間には厳しく動いていたことが予想できます。

 

このように「ただの待ち合わせ」でも、

携帯やスマホがない時代の人々はいろいろなことを考え、

行動していたのだと思います。

しかし、今はそれが必要とされなくなっている・・・

つまり、想像する必要がなくなっているのだと思います。

 

また、待ち合わせだけでなく、最近では

「料理も動画で説明してくれる」というものもあります。

昔は、レシピを読み、活字からどのように料理ができるのか

想像しながら作っていたと思うのですが、今は想像するどころか、

レシピを読む必要すらなくなってきています。

例えば以下のような動画。

 

私が言いたいのは、「すげ!あの元SMAPの草なぎ君が

料理動画をYouTubeに出している」

ではないですよ~(笑)私が言いたいのは、

 

どこでも料理動画を簡単に見ることができる
 

というところです。このように考えますと、

 

我々はスマホ(やパソコン)の発達が原因で

「日常必要とされる想像力」を失ってきているのではないか

 

と思います。しかし、

「こういった想像力が失われるのは問題なのか?」

というと、それはまた別のお話。

例えば・・・極端なお話ですが、

大昔、人類は狩りや木の実などを

見つけることで食料を得ていました。

違う言葉で言えば「狩りや木の実を見つける能力は

生きるために必要な能力」だったと言えます。

しかし、現在食料を得るために

「狩りや木の実を見つける能力」は

全く必要ありません。つまり、

 

昔は「日常で必要とされていた能力」が

現在は「必要とされない能力」になるということが

ありえる

 

ということです。そのように考えますと、

私がここでお話した「日常で必要とされていた想像力」が

なくなるのは、ごく自然のことなのかもしれません。

 

しかし、私にはこの「想像力」は失ってはいけない能力なのでは

ないかと考えています。なぜなら、

 

この想像力は

発明や研究などにつながる全ての想像力の基礎であり、

「未来を予想する力」だと考えているからです。

 

このまま便利なものが次々と発明されていきますと

人間は自動運転の車どころか、歩く必要すらなくなっていきます。

2008年にWALL・E(ウィーリー)という映画がピクサーから

出たのですが、舞台は2805年。

ここでの人類は以下のように表現されています。

 

 

このような未来は、本当に幸せなのか・・・

今のように「便利なものをとことん追及する世の中」でしたら

このような時代が確実に来るでしょう。

しかし、このような未来は迎えたくないという場合、

どこでストップをかけるのか?これも想像力だと思います。

 

「”待ち合わせ”から”世界の人類の未来”」を考えるというのは

飛躍しすぎかもしれませんが、

「日常から我々の未来」を考えのも

重要なのではないかな~と個人的には思いますね~。